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 >>はじめての石見銀山 >開発の歴史(1)
 はじめての石見銀山 タイトル−開発の歴史(1)

石見銀山の<開発・興り>については、およそ13世紀ごろ、はるか鎌倉時代に
までさかのぼる。古い記述では、鎌倉時代には周防の大内氏が、南北朝期には
足利氏が、銀寄生(ぎんとじ)とも、粋銀(とじぎん)とも呼ぶ自然銀を採ったとされ
るが、この時代のものとされる採掘・精錬を伺わせる痕跡は見当たらず、実際に
は単に地表に表出した<とじぎん>を掘り去っただけだったのか、現時点想像の
域を出ない。

ちなみに、この<とじぎん>の<とじ>は、いわゆる<卵綴じのとじ>と同じ意味
で、煮物・汁物に溶き卵を入れて絡め繋ぐように、地表の岩(=具材)の隙間に
染み込み表出した銀の固まり(=とじ)を意味する。

さて、石見銀山の本格的な開発が始まったのは、それから200年あまり過ぎた
室町・大永年間、博多商人・神屋寿禎が<再発見>し、開発して以来とされる。

ここで興味深いのは、年代・場所・人物をも含めて、その発見の経緯・端緒についての諸説である。 山の<見立て>に関する故事や伝説、さらに信仰や後付の誇
張など様々だ。

特に、「山が光った」、「白い霧が涌いた」、「霊光・霊夢を見た」・・・等、信心深い
人の綴った迷信めいた記述を、長い間に亘りなぞり、書き写されるうちに、石見
銀山の発見が、より一層物語りめいたと思われる。

これは地元でも例外ではなく、<銀山の人口二拾万人、寺社百ケ寺>など、
金科玉条のごとく引用される古文書<銀山旧記>などを根拠に、今なお
実しやか に、歴史的事実として説明されるのは面白い。

 『旧い記述にあれば即ち歴史になる』 のは問題だが、確かに別の史料にも
あったりして、まんざら嘘でもなさそうな事柄もある。 読めぬ古代文字の解読なら
未だしも、読める史料のこの微妙な、リアルとバーチャルの狭間に遊ぶのも、
ここの歴史のロマンなのかもしれない。

 ■石見銀山の概要
 ■名称の由来
 □開発の歴史(1)
 ■開発の歴史(2)
 ■灰吹法とは
 ■世界遺産たる価値

 
 龍源寺間歩について
 ■龍源寺間歩とは
 ■龍源寺間歩の内部(1)
 ■龍源寺間歩の内部(2)
 ■龍源寺間歩の内部(3)
 ■当時の採掘環境
 
 石見銀山あれこれ
 ■当時の人口について
 ■無駄にも思える大きな通路
 ■産出量・含有率
 ■坑内の明かり
 ■石見銀山ねずみとりの真実
 ■鉱山労働を支えた人々
 ■石見銀山の法制史
 
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