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 はじめての石見銀山 タイトル−鉱山労働を支えた人々

よく、鉱山労働者の地位や身分に関しての話が出る。特に、この時代の社会や
歴史や法制に係る、一般的知識と歴史的事実とのずれについてだ。色々ある中
特に、罪を犯した者に対して、その罰として鉱山労働を科していたかのような誤解
があることだ。

この類の話が良く出るのが、人気の人情時代劇<鬼平犯科帖>などによるものと
思われる。その例に見る白洲での、一件落着場面に、「佐渡に遠島申しつくる」と
ある。

罰として財産を没収し遠い島に送るのだが、確かその多くには期限があって、
<体に気をつけ真面目に努めて戻って来い良いか>とあったように記憶する。
とは言っても、命は取らないまでも、重罪には無期・終身の流刑があったのか・・・
などはよく知らないところではある。 よって大雑把だが、今の居住地からの退去を
命じられる<所払い>より重く、命を取られる斬首・獄門などの<極刑>より軽い
島流し、流罪、流刑、遠島などといわれるものだ。

この話は、暴動に備え治安のため、寛政の改革の折、長谷川平蔵の建議で、江
戸・石川島ほかに出来た、無頼・無宿の者を収容する<人足寄場>の無宿者を
安永・天明期に<更正・矯正>目的で、<水替人足>として佐渡で使役した話の
膨らみのように思える。

しかしこの事が示すように無宿人の作業は<水替人足>のレベルであって、鉱山
技術者ではない。このドラマが、刑罰と鉱山労働との必然的因果関係を示すもの
ではないと思いたい。もちろん時代考証など、詳しく知るものではない。

石見銀山での鉱夫は、10歳にも満たない幼少期から主に使い走りの手子(てご)
として鉱山に入り、長い年月を掛けて育て、技術を身につける専門職であった。
人手不足はあったにせよ、罪を犯した者を隔離するための手段とは相容れないと
考える。ただ、それが無かったという記録も、有ったという記録も知らない。

石見銀山での鉱山労働は、子供や女性も含めて、小規模な家族内労働などの
ほか、ある種の雇用関係で営まれていた。 身内のほか無職・失業者の意味での
<あふれ者>であったという。例えば、自然災害などによる不作や疫病蔓延など
職を失った者、分家・独立できない農家の二三男などだ。

当然、賃金労働で、分業化されていた職種ごと、時間ごとの賃金や種々の手当など、具体的に定めた記録も残る。賃料は、銀で支払われていた。なお、江戸末期に<子供養育米>や<銀堀御取囲>の制度があって、米・味噌・大豆・塩・薬などの支給もした。

ただこの事をして、今でいう社会保障制度と捉え過大評価する向きもある。
これは、子供の疫病の蔓延などで減った労働力確保のために、他村からの養子
縁組などに対する補助だったり、労働力の確保と流失防止を意図したものであっ
たりし た。

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