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 はじめての石見銀山 タイトル−龍源寺間歩とは

ここ石見銀山遺跡の中で、多くの人が訪れる場所が、公開坑道・龍源寺間歩だ。
公開されている間歩で、街からも比較的近くて安全なこともあって、最も良く知ら
れる鉱山遺跡となっている。 硬い石英安山岩という火山岩を掘った坑道であり、
総延長は600メートル以上ともいわれる。 安全のため、実際に公開されている
のは、僅か157メートルほどだ。

龍源寺間歩入り口

その名<龍源寺>は、一説にかつて当たりにあった寺の名に由来するともいう。
<間歩>は、狭義には鉱石を採掘した坑道をいい、広義には、その鉱区一帯を
指していう。 ただ、間歩の語源については、興味深い説がいくつかあるも、いずれ
も精度が低くここでは割愛する。

龍源寺間歩は、江戸時代中期、正徳5年(1715年)から開発され、昭和18年
(1943年)までの長きに亘り採掘された。 江戸時代は良質な鉱山として、代官所
が直接管理・経営をした鉱山<御直山> の一つであった。 よってこの入口付近
の平坦地には、掘り出した鉱石を溜め置く「鏈(クサリ=当時鉱石をクサリと呼ん
だ)置場」、岩石を砕き鉱石をより分ける選鉱、精錬などを行う作業小屋に加えて
監視の役人の詰所である<四ツ留番所> が置かれていた。

入口の説明版にある写真は、明治期のもので、間歩前に建つ建物は事務所や
工場のようにも見える。また、定かではないが、管理棟脇の岩盤加工を見ると、
他の間歩の例に見られるように、精錬などに関わる施設が存在したようにも思わ
れる。

坑道の入口は、四本の支柱で支えられた、<四ツ留>と呼ばれる坑口特有の
堅牢な木組みで囲われている。佐渡金銀山などに六本支柱の例もあるが、一般
的には四本支柱のものが多く、坑口のことを当時は、四ツ留と呼んだ。
また、地方によっては、舗口(しきぐち)とも、真府(まぶ)ともいった。上を仰ぐと、
厳しい鉱山の仕事に信仰は欠かせず、何時の頃からかは不明だが、山神が鎮座
する。

開発当初は、現坑口のすぐ左隣りの小さな穴・525番間歩から掘られ、後にトロッ
コの導入もあって、広く真っすぐな今の坑口になった。入ってすぐ左に、明かりの
漏れる合流地点が確認できる。現在通路になっている、ほぼ水平に進む広い坑
道は、木材などの資材の搬入、掘った鉱石の搬出を目的として掘られ、同時に
排水や換気の役目をも兼ねていた。

 

 ■石見銀山の概要
 ■名称の由来
 ■開発の歴史(1)
 ■開発の歴史(2)
 ■灰吹法とは
 ■世界遺産たる価値

 
 龍源寺間歩について
 □龍源寺間歩とは
 ■龍源寺間歩の内部(1)
 ■龍源寺間歩の内部(2)
 ■龍源寺間歩の内部(3)
 ■当時の採掘環境
 
 石見銀山あれこれ
 ■当時の人口について
 ■無駄にも思える大きな通路
 ■産出量・含有率
 ■坑内の明かり
 ■石見銀山ねずみとりの真実
 ■鉱山労働を支えた人々
 ■石見銀山の法制史
 
 動画でみる石見銀山
 ■石見銀山シリーズ(現13編)
 ■世界遺産センター紹介
 ■熊谷家住宅
 
 地元人の想い
 ■石見銀山の真の価値とは
 ■想い

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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