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  >>みちくさへの誘い > 復路(3) 清水谷精錬所跡

 往路(銀山公園 発) 清水谷精錬所跡

 

 この城跡の石垣を連想させる石組みは、近代的な技術を取り入れた、銀精錬
 工場の跡地だ。説明版にあるように、山の斜面を利用した平坦地の各段には、
 工場施設が立ち並んでいた。

 明治28年に大阪の藤田組(現・DOWAホールディングス)が、当時20万円もの
 巨額を投じて建設するも、僅か1年半で操業を停止した。裏の山を越した谷で
 採掘した銀鉱石を運び、精錬する予定であったが、すでにその銀鉱石の品位
 が落ちて、精錬に結びつかなかったことなどが、その原因の一つとされている。

 発掘調査では、精錬活動を示す、キューペル(骨灰皿)のほか、多くの遺物が
 出土した。 この清水谷製錬所は、ここ石見銀山の歴史の中の、特に銀鉱山と
 しての歴史の中で唯一、産業革命以降の、西洋の近代的技術による製錬施設
 だ。また同時に、ここ石見銀山最後の鉱山遺跡で「銀山終焉の地」でもある。

 ここで、よく聞かれる石見銀山の終焉に至る経緯についてだ。

 銀の歴史は、1896年(明治29年)ここ清水谷製錬所で終わったが、銅鉱山を
 含めた石見銀山としては、なお暫く続いた。隣に聳える城山・要害山の西側に
 遺跡が残る「永久鉱山」がそれだ。 第一次世界大戦の特需で潤い、終戦不況
 で低迷し1923年(大正12年)に休山、その後第二次世界大戦下で再起を模索
 するなか、1943年(昭和18年)の大水害による工場施設の流失、坑道の水没
 などで営業の再開を断念した。

 この時をして「石見銀銅山」は、完全に閉山となった。

 その後、石見銀山は世界遺産という、思いもしない容で蘇ることとなった。
 なお、時間や距離を考慮して、精錬所や選鉱場、およびここに至る鉱石の流れ
 を辿る経路などの詳しくは、後の項に譲る。

 なお、作者ブログの古い記事にも多少の説明はある。

 ▽銀山公園 〜
 ▽蔵泉寺口番所跡〜
 ▽地役人遺宅 渡辺家〜
 ▽下河原吹屋跡〜
 ▽豊栄神社〜

 ▽極楽寺〜
 ▽山吹城大手口〜
 ▽休役所跡〜
 ▽白米ケ谷〜

 ▽間歩群 甘南備坑〜
 
 復路(龍源寺間歩 発)
 ▽順勝寺跡 〜
 ▽新切間歩〜
 ▼清水谷精錬所跡
 ▽安養寺 鏝絵〜
 ▽龍昌寺跡 宝篋印塔〜

 ▽大安寺跡 逆修塔
 ▽妙正寺跡〜

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