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  >>みちくさへの誘い > 復路(2) 蔵泉寺口番所跡〜清水寺

 往路(銀山公園 発) 新切間歩〜

【 新切間歩 】 

 

 初めは、辺りの間歩の排水坑として掘られたものだが、代官所の開発資金を
 投じて掘るうちに、大鉱脈に突き当たり代官所の直営鉱山<御直山>として
 大いに栄えた。よってこの間歩の内部は、鉱石の採掘・搬出用の坑道と、排水
 用の坑道との上下二本が平行して走り、途中を竪坑で繋ぎ、疎水・通気を図っ
 たという。

 入口への、川の飛び石と階段は、滑るので要注意だ。
 最悪落ちても水は浅いが、転ぶと厄介なので・・・。

【 清水寺 】 

 

 ここでは「 せいすいじ 」と読む。
 その縁起によると、推古天皇の命により、聖徳太子が観音像を造って安置した
 ことに始まるとされる。元は、銀山・仙ノ山山頂の池の畔に建てられ「天池寺」と
 称した。その後に、桓武天皇が勅願寺とし名を改め後に「清水寺」となった。

 何とも古い話で、あちこち良く解らないが、否定する根拠もないほどの、そんな
 ロマン溢れる話が伝わる。 ここで語られるのが、石見銀山切っての山師、安原
 伝兵衛との関わりだ。

 旧い記述によると、信心深い伝兵衛は、この寺に篭もり願を掛け、やがて観音
 菩薩の霊夢に導かれて、「釜屋間歩」と呼ぶ大鉱脈を掘り当てたのだという。
 ただ、この辺りの話もまた色々交錯するが、唯一確かな史料として残るものに、
 清水寺再建時の棟札にその名があることから、寺との関わりがあったことだけ
 は確かな事実のようだ。

 大成功した伝兵衛は、大量3,600貫(13トン)もの銀を運上し、この功績により、
 伏見城の徳川家康に謁見し、「備中守」の称号と、褒美の品々を拝領した。
 後にこれらは子孫により、ここ清水寺に寄贈された。しかし残念ながら、寺宝の
 釜屋銀造の観音像ともども、現時ここにはない。

 

 せめてここで見えるものとしては、本堂を外から覗き見る、初代銀山奉行の
 大久保長安の「下がり藤」の家紋だけだ。

 寺の再建の時に寄進した代官や地役人や有力商人たちの、極彩色の家紋を
 配した格天井だ。ただ、足元の床板古く呉々も注意を・・・。

 また、境内の石仏の並ぶお堂は、後に辺りにあったものを集めたものだ。

 

 更には、裏山の朽ちた祠「天満宮」は、銀山開発初期に神屋寿禎らとともに、
 最初に入山し開発史に名を残す、掘り子 於紅孫右衛門を祀るものだと聞くが、
 真偽の程は定かではない。

 なお、地元石見神楽団の創作演目にもある、「於紅孫右衛門縁起」に残る
 面白い話の顛末は、後の機会に・・。

 ▽銀山公園 〜
 ▽蔵泉寺口番所跡〜
 ▽地役人遺宅 渡辺家〜
 ▽下河原吹屋跡〜
 ▽豊栄神社〜

 ▽極楽寺〜
 ▽山吹城大手口〜
 ▽休役所跡〜
 ▽白米ケ谷〜

 ▽間歩群 甘南備坑〜
 
 復路(龍源寺間歩 発)
 ▽順勝寺跡 〜
 ▼新切間歩〜
 ▽清水谷精錬所跡
 ▽安養寺 鏝絵〜
 ▽龍昌寺跡 宝篋印塔〜

 ▽大安寺跡 逆修塔
 ▽妙正寺跡〜

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